The brain dissection

The brain dissection

【脳内解剖】

前回好評だった、Designer’s  life style
リクエストにお応えして、今回はデザイナーの宮田氏の40年間の人生に焦点をあててインタビューさせてもらいました。今回は海などドライブをしながらのインタビューを行い残っていた昔の写真も掲載。
デザイナーの脳を解剖してVarde77がどのように誕生したのか、さらには哲学や歴史にも迫ってみたいと思います。前回同様インタビュー形式で掲載させて頂きます。今までベールに包まれていたことなど、赤裸々に語って頂きました。ディープに知りたい人、最近Varde77を知った人のための質問も入っています。ぜひご覧ください!
-今回は少し過去にも遡ったインタビューになります。よろしくお願いします。-
Miyata:
記憶力がかなり低下していますが、よろしくお願いします。笑
昔の写真は画質荒くてすいません。
-まずは簡単なプロフィールを教えてください。-
Miyata:
1977年1月13日 愛知県の名古屋生まれです。性別は男です。笑
名城大学卒業後に上京しています。20代は東京でロサンゼルスに本社のある古着の会社で古着の卸や小売りを経験しました。洋服作りは仕事でも少し経験しましたが、現在のパターンナーと知り合い勉強させて頂きました。
その後2006年に独立してVarde77を立ち上げています。現在は結婚していて奥さんと1人の娘がいます。笑
-今日のファッションのポイントは?-
Miyata:
今日はあえて、学生の頃からずっと履いている古着のコーデュロイパンツで来ました。
19歳ぐらいの時に自分でシルエットを細くしてカスタムしています。靴は2016年モデルのアディダスのキャンパス。これは2年前に2足買っていたのでよく履いています。
同じキャンパスでも今年のモデルはあまり好きではなくて2016年に買っておいてよかった。レザージャケットは2018awの10月に発売する最新作のレザージャケットです。
制作する段階から売れなくても自分だけが着るために作ったようなレザージャケットだったので、めちゃくちゃ気に入っています。
-ファッションに興味を持ったきっかけを教えてください。-
Miyata:
具体的にはよくわからないけど、小学校の頃からダサいケミカルウォッシュのデニムが履きたいと親にわがまま言ったりしていました。
リアル80年代なので本当にダサい格好だったと思います。中学1年か2年の頃にラルフローレンのポロシャツを古着屋さんかなにかで手に入れて、それを大事に洗濯していたのを覚えているので、かっこいいかは別として物心ついた頃から洋服は好きだったように感じます。
実は今まであまり言ったことがないのですが、高校生のころは古着と同時に裏原宿のストリートが大好きで、古着を着ている日もあるし、ストリート系の時もありました。高校生ってまだ自分の方向性が定まっていなくて、いろんな洋服を着て楽しんでいた気がします。大学生だとハイブランドを掛け合わせることも多かったです。
ファッションを好きな人は学生の頃はハイブランドとか欲しくなりますよね。この写真で履いているレザーショートパンツなんかはUNDER COVER(僕の記憶ではUNDER COVERは当初2人でデザインしていました。)の一之瀬弘法氏が別に立ち上げたマイノリティーというブランドだったと思います。当時大人気だっったアイテム。
学生の頃は古着も好きだし、ストリートもハイブランドもいろんなものに興味があって、ファッション雑誌をたくさん読み漁っていましたね。
※高校時代の宮田氏。
-Varde77のコレクションでは度々音楽に関連するコレクションテーマや、音の匂いが漂う作品が多い気がしますが、学生時代から音楽という存在は常に身近にあったのでしょうか?-
Miyata:
中学校の頃はファッションよりも音楽の方にのめり込んでいたと思います。
厳密に言えば、音楽で一番初めに好きになったのはチェッカーズです。
特に藤井フミヤさん。
小学校低学年だったと記憶しています。小学4年生ごろに安全地帯の玉置浩二さん。中学になると、B’Zや尾崎豊さん、長渕剛さんが好きでした。
高校になるとバンドをやっていたため、Sex Pistols・THE MAD CAPSULE MARKETS・Guns N’ Roses・BLANKEY JET CITY・Mr.bigが好きでした。高校生になってライブに行こうと思ったら尾崎豊が死んでしまったのは強烈に覚えています。
大学生の頃は自分たちで様子おかしいバンドを組んでいて、BLANKEY JET CITY・Beastie Boys・Bob Dylan・BECKが熱狂的に好きでした。
ちなみに女性ではPAFFYや椎名林檎さんが好きでした。学生の頃はスポーツの部活は基本的に続かず、家に帰って音楽をやっていました。
※大学生のころの写真。大好きだったBLANKEY JET CITYの中村達也氏と。
Miyata:
大学の頃は「MOUNTAIN」という排泄物のようなバンドというサブタイトルでバンドをやりました。これはもうメチャクチャなバンドで、ギターに全部6弦を貼ってみたり、ギターのピックアップをボーカルマイクに改造したり、タイヤのホイールに革張ってドラムにしたり。
ノイズというジャンルですが、ほぼ雑音でしたね。
来てくれたお客さんも訳がわからなかったと思います。僕はその音楽に衝撃をうけて途中で加入させてもらったのですが、僕以外ちゃんと楽器弾けなかったですからね。笑

※写真はライブ終わりにメンバーと撮った写真。
Miyata:
ちなみにですが、このバンドはDOO RAGとかBOB LOGⅢというバンドに影響を受けて音楽制作していました。当時でも誰も知らないようなマイナーな音楽ですが、さっき探したらYOU TUBEで見つかったので、一応紹介しておきます。笑
ちなみに当時は周りはコーネリアスとかUAとかとにかくオシャレ系の音楽が流行りだしていた時代ですが、すでに時代に反発していました。オシャレ系のマスのスタイルや流行にのるのが嫌だったんだと思います。実はUAは好きでしたけどね!
でも今見てもやっぱりかっこいいと思ってしまう。笑
めちゃくちゃでもこの人にしかできないし、この人らしさ全開で。。。
この話は絶対に一般受けしない、というかこの話をすると変な人だと引かれることが多かったため封印していました。もうやめます。笑
昔から夢はヴィンテージホテル(いろんなアーティストが表現出来るホテル)を作ることだと決めているのですが、20代の時に行ったアリゾナ州のTUCSONにたまたま泊まったホテルがかっこよくて、あとで調べたらこのBOB LOGⅢが生まれ育ったライブハウスが入っているホテルで、運命を感じてしまいました。
※27歳の時、車が壊れてたまたま泊まった1900年初頭からあるホテルコングレス。
だから、初めてVarde77の展示会をやる時のテーマを〈STARTED FROM TUCSON〉にしてカメラマンの長友君と一緒にこのライブハウスに向かいました。
-どのような経緯でファッション・アートという仕事に興味を持ったのでしょうか?-
 Miyata:
いわゆるヴィンテージブームと裏原宿ブームが同時に高校生の頃にやってきました。厳密にいれば裏原宿はブームになる前だったかもしれません。古着のヴィンテージに関しては高校の頃、名古屋の植田の辺にあった古着屋さん(名前が思い出せない)と高針の辺にあった VINTAGEという名前のお店に通って色々物色していました。その時にリーバイスのデニムにハマって色々研究しました。古着に関しては雑誌の切り抜きなどをファイリングして勉強していました。
中学ぐらいに藤井フミヤさんの服装がかっこよくて、その時のスタイリストさんが現在のアンダーカバーのJONIO(高橋盾)さんだったんです。その後にJONIOさんがNOWHEREというお店を作ったため、東京に旅行した時に行きました。その頃はNOWHERE以外にもVINTAGE KINGという古着屋さん、ゴローズもあって裏原宿という街が小さなこだわりのあるお店ばかりで、とても楽しかったです。 小さなこだわりのある店を探して友達たちと回って楽しんでました。その頃から漠然とこういう店を作りたいと感じていました。この頃の写真は実家で探さないとないですね。。。
アートに関しては、どちらかというと今でもあまり興味がない方だと思います。厳密に言えば、アートも好きなのだけれど、アートは人気が出ないと価値がでない。アートを楽しめる人は人気が出て価値がつくのを楽しめる人たちだと思いますが、僕は人気が出ないようなものとか人が見向きもしないものを見る方が楽しいんです。例えばPicasso・Andy Warholとかも好きで海外に行った時は美術館なども行っていましたが、誰もが知っているような作品などは熱が冷めてしまうので、続かなくなってしまうんです。だから例えばミリタリーの古いワッペンとか建築、自分にしかわからないような、そういったものの中でのアートを探す方が好きです。
-家族の影響などが大きかったのですか?-
Miyata:
父親は8ミリビデオ関係の会社で働くサラリーマンで母親は和菓子屋で働く共働き、双子の姉がいますが10歳離れているので、一人っ子のような感覚でした。小学生のころは隣の親戚の家にいたり、その隣の祖母の家にいたりしたイメージがあります。どちらかというと、親のように生涯サラリーマンで終わりたくないと思っていました。
しかし、今は生涯サラリーマンを貫いて人生計画を立てていた親をとても尊敬しています。カメラは本職とも言える父親に教えてもらいました。
-ファッションを仕事にする前はどのような視点で洋服を楽しんでいたのでしょうか?-
Miyata:
先ほども少し話しましたが、ヴィンテージブームに単純に乗っていたのと、裏原宿の発展をずっと見ていました。多分90年代前半の東京ファッションの歴史はオタク並みに詳しいと思います。でも今考えると雑誌や広告のメディアに振り回されていたと感じます。実際、洋服の仕事について、ファッションの裏側を知ると全く違う観点を持つようになりました。いわゆる素人とプロの違いかと思います。
-ブランドを立ち上げる前はどのような形でファッションに携わっていたのか教えて下さい。-
Miyata:
そう言えば、学生の頃は靴オタクでもありました。
学生の頃は靴屋でアルバイトしていたこともあるし、古着屋さんを手伝っていたこともあるので、それがファッションに携わった入り口だと思います。実は大学を在学中、就職活動を全くしなかったんです。笑
今考えると無謀すぎるなと思いますが、アルバイトを何件か掛け持ちしていて、そのすべての職場から社員にならないかと声をかけられていたので、就職なんてなんとでもなると、なめていました。笑
大学を卒業してもアルバイトを続けて、上京資金が貯まった半年後に東京に来ました。
祖師ヶ谷大蔵にある15m2ぐらいのワンルームで一人暮らしを始めました。
とりあえず、上野にあった適当な古着屋さんでアルバイトを始めましたが、上司みたいなスタッフがギャル男みたいでダサすぎで一緒に働くのが嫌になり2ヶ月ぐらいで転職しました。でもその時に知り合った友人とは今でも仲良くしています。
そして転職したのがsola of tokyoという会社でsola of californiaという会社がロサンゼルスにもありました。とにかくアメリカに行きたかったので、アメリカに行けるかもしれないという夢を膨らませてこの会社に入りました。
 
※当時働いていたロサンゼルスの本社の外観と内部。
実はtexという古着屋さんが渋谷の神南にあってそこの古着屋が好きでよく行っていたのですが、その下にあったレディースの古着屋さんがたまたまあってメンズの古着バイヤー募集と書いてあったので、店は知らないし、レディースだけどアメリカに行けるならそれでもいいと思って面接に行きました。
3ヶ月だけお店で販売のアルバイトをした後、すぐにまずタイに古着の買い付けに行かせてもらいました。その時は自分のセンスを抑えて、その時の店長や営業の人が求める古着の買い付けを徹底して行いました。
この時に培った求められる古着を買い付ける能力というのはとても大切だったと今でも思います。
自分が好きなのを揃えたりするのは誰だって出来るけど、いろんな人のセンスを理解してその時にあわせた買い付けをするのは、柔軟性と努力が必要です。その結果、上司も認めてくれてアメリカに買い付けに出れるようになりました。その時はアメリカの本社に全国の古着屋さんに古着を卸す(古着屋さんに古着を売る)営業さんが上司だっため、感覚をすり合わせてバイヤー業に専念しました。今でも貴重な経験だと思いますが、小さな古着屋さんでは絶対にできないような独特な買い付けルートでした。
範囲はアメリカ全土。
※24歳ぐらい。仲のいい女性のバイヤーさんと!今でも付き合いがあるそうです。この時からツナギを腰に巻いたスタイル健在。
しかも小売店を回る買い付けでなく業者しか入れない倉庫をひたすら回る旅でした。
ボロ屋と呼ばれる古着倉庫にエアコンはなかったので50℃を超える灼熱のなか倒れそうになりながら、長時間移動をしながら回っていました。月に一回はロサンゼルスに戻ってROSE BOWLという西海岸最大のフリーマーケットに会社が出店していたために販売の仕事をこなしていました。
※これも24歳ぐらい。ブラックアロハ健在。しかしチャラい感じ!笑
※会社のボロトラックに乗ってアメリカ中で買い付け
そのフリーマーケットではいろいろな古着を売っていましたが、最終的には社長が好きなミリタリーの古着を販売する機会が多かったです。
※働いていた会社の北嶋社長
その後はレディースの小売りの店長からMD(マーチャンダイザー)になり何店舗かのお店の立ち上げに関わりました。27歳の時にアメリカにいた社長に相談してメンズの古着屋さんを「渋谷原宿のキャットストリート」に立ち上げさせてもらいました。この時は自分が独立することを決めていたので、社長がやりたいことと会社に足りないものを考えてメンズの古着屋を作りました。それが今はもうなくなってしまいましたが「MESA」というお店です。
※MESAの店内写真。
このお店を出店してからは本当に色々な人たちと出会いました。このころは古着だけだと視野が狭いので、それ以外のファッション全体と関わるようになっていきました。特に東京コレクションやパリコレクションなんかも見れる機会が多くなり、ファッションブランドを運営する仲間が多かったため、いろんなことを教えてもらいました。ファッション業界からすると、古着業界は閉鎖的な独特なマーケットだったため、いろんな人が古着に関しては僕を頼ってくれるようになっていました。
そして古着業界の人が出来ないことをやりたいと思うようになり、古着にない物作りをしたいと思って今も仕事をしているパターンナーと出会って仕事の合間をぬって洋服作りを教えてもらいました。そのパターンナーは専門学校とかが嫌いなタイプだったので、工場の現場で量産出来るやり方で、気持ちの入った手引きのパターンからものを作るというやり方を色々指導してくれました。会社でも企画の仕事はあったので、アメリカでの生産や中国の工場などの現場も見ています。
いろんな現場を見た上で日本の現場のクオリティーの良さを体感して日本中心で物作りをすることを決意しました。
-宮田さんにとってのアメリカとはどのような存在ですか?-
Miyata:
広大な大地は、大きく言えば親のような存在だと思います。故郷はロサンゼルスでアメリカの旅はいろいろな経験をさせてくれました。
※20代前半、1人で夜中ドライブを続けて朝になったらグランドキャニオン周辺にいたのでカメラを置いて撮影したそうです。
-VARDE77をスタートさせたきっかけを教えて下さい-
Miyata:
昔の夢は古着屋さんを作ることだったんです。でも実際にプロになって古着屋さんに古着を売るようになってからは、あまりにも小さな古着屋さんが儲からないし、古着屋のオーナーのライフスタイルが僕の求めるものではなかったので、僕は同じようにはなりたくないと思い、古着屋さんができないことを模索するようになりました。25歳ぐらいからは僕の周りには古着屋さんは仕事上の付き合いで、プライベートではファッションのブランドのデザイナーさんやプレス・バイヤーさんや芸能関係の人などが多かったため、古着とファッションの融合(今考えると変な感じですが、当時は古着とファッションは全く別だったんです。)を意識するようになりました。それからは洋服を作る勉強をひたすらしました。もともと大学生の時に文化服装学院の通信教育を受けていて途中で挫折したのと、パターンの基礎や縫製は少しだけ経験があったし、古着のシルエットを改造したりリメイクしていたので、洋服を作る勉強を素人からプロに変わって再挑戦したという感じです。29歳の時、布帛関係は販売できるなというレベルに達したというか売れる自信があったため、独立を決意しました。その時は当時働いていた会社の社長も独立を応援してくれたので、自信を持って独立できました。
裏話ですが、当時社内恋愛していた彼女に振られたため、悔しさや切なさもありながら前に進むしかないと全てを投げ捨てて独立しました。笑
※2006年、Varde77を立ち上げる前に回ったヨーロッパの旅。写真はパリ。古着とランウェイのパリコレクションを見て回りました。
※パリコレクションを見て回った後、凱旋門前で撮影。現在のPR01の松井智則氏や最近ヒビヤセントラルマーケットをディレクションした南貴之氏らと一緒に!みなさん若い!笑
-2006年のブランド創設からファッションという存在は自身の中でどのように変化していったのでしょうか?
Miyata:
どうなんだろう。。。全く変わらない気もするし、全く変わってしまった気もする。。。ファッションには表と裏があって、ファッション業界のいろんな面を見すぎてしまったと思っています。なんだか地位や名誉、ビジネスが大半をしめてしまっていて、自分は純粋にファッションが楽しめなくなり、自分の理想とする洋服の世界を追い求めるようになってしまった感じというか、、、僕の理想はライフスタイルの充実があるんだと思う。ライフスタイル全体が充実していないと、ファッションをやっているのが楽しくないんです。でも独立して12年経過して1店舗目の祐天寺は特別大きな改装もしないで、できるだけ当時のままの店を貫いるところもあるので、変わらないものの大切さもある。でもやっぱり20代の人がファッションを盛り上げたほうが面白いだろうから、お店はできるだけ若いスタッフに任せたいし、Varde77というブランドをうまく料理してほしいと思うようになっています。そういう意味では少し客観的にファッションを見ている気がします。でもVarde77の物作りをする時は、本当に着たい洋服なのか、作りたい洋服なのか、自分が作る意味はあるのかと自問自答を繰り返して出来るだけ納得できるように進めています。
-Varde77 = LEATHER というイメージが強いのですが、ブランド立ち上げ当時から革ジャンをリリースしていましたね。初めてリリースしたレザージャケットはどのようなデザインですか?-
Miyata:
当時も高いものは売れないと言われていたので、それなら高くてもいいものを売りたいと思って大好きなレザージャケットをデザインしました。それからもレザージャケットにはとにかく1年に1度2型までと決めて全力で制作に挑んでいます。第1号は受注生産でしたがシングルライダースのポケットを立体にしたデザインです。
-毎シーズン クリエーションがはっきりと受け取れるコレクションブックですが、毎回どのような思い製作していますか?-
Miyata:
当初はプレス用にしか配っていませんでした。でもブランドを続けるにあたって他のブランドを見ていてプレスありきのブランド運営に嫌気がさして、Varde77はお客さんとバイヤーさんにしか配らないことにしました。正直、ファッションブランドのランウェイコレクションを見に行った時に感動したことがなかった。なんだか雑誌の編集長とかをよいしょして、最前列にならべて自分たちが有名になるのに必死になっている裏側ばかり見ていたので、ランウェイコレクションという形式が嫌いになってしまった。どうしても媚を売ることができなくて50%50%で付き合いたいと思ってしまうんです。それに、ものとして残る紙の方が好きだったので、Varde77は本という発表形式を続けていこうと決めました。ただ全国のVarde77の取り扱い店舗においてもらっていて、かなりの数を無料配布しているので、資金の限りもあり今のコレクションブックになっています。もう少し少ない数で生産すればまた違ったブックになるのですが、お客さんにも見てほしいので今はこのバランスがいいかと思っています。ただカタログにはしたくなくて昔から一貫してシーズンの表記(例えば2018AUTUMN&WINTER)とか商品の値段は表記していません。例えば今2010年のコレクションブックを見ても新鮮な気持ちで見てほしいという思いもあるためです。意識的には多くを語らず、感覚で見てもらえるのを重視して制作いるつもりです。

2018autumn&wintercollection book「SOLITUDE TROOPS 1」

-総柄でオリジナルファブリックという攻めた生地が多くなっていますが、テキスタイルデザインはどのようなところから着想を得ていますか?-
Miyata:
正直、攻めているという意識はそんなにないのですが、ヴィンテージの生地で好きなものが多いので、好きなものを小出しにしている感じでしょうか。あとは仲良くしている生地屋さんもあるので、開発には協力的で助かっています。着想という意味では建築やインテリアも影響を受けていると思います。
-あえてテーマに縛られないコレクションを続けるようになったきっかけを教えて下さい。-
Miyata:
最近は特に洋服の格好のイメージが湧いてしまうようなテーマは設けなくなりました。2013年ぐらいまではDOG TOWNを意識していたり、ボブディランを意識していたり、PARISTEXASの映画をテーマにしたりと具体的なテーマを設けていました。映画とかファッションのイメージが湧きやすいテーマにしたほうが実は洋服のラインナップを考えるのは簡単な気がします。そしてお客さんにもプレス関係にも伝えやすくなるので、一石二鳥でもあります。ただテーマがわかりやすすぎると、そのテーマだからといって作りたくない洋服を作らなくてはいけなかったり、縛りみたいなものができてしまうんです。だから最近は自分が今着たい洋服の集大成となるようなテーマを作るようになりました。自分らしさが伝わるテーマという感じでしょうか。
-近年のコレクションは普遍的なアイテムから独創的なアイテムまでバランスよくリリースされているように見えます。シンプルな商品であっても顔つきが「Varde77」とわかるアイテムが多いと感じます。意識している部分はありますか?-
Miyata:
そう言って貰えると嬉しいのですが、期限ももちろんあるので、その時々で100%満足しているかといえば、そうではありません。デザインと生産をほぼ1人でこなしているので、僕の癖みたいなものがそう映っているのだと思います。
-2018年のテーマ「SOLITUDE TROOPS」孤独軍とは壮大なテーマですが、以前から構想を温めていたのですか?-
Miyata:
壮大というと少し違う感じがします。笑
洋服などの作品は手にした人たちの解釈で感じることがあると思うので、具体的に説明しすぎるのも少し抵抗があります。作品から感じて欲しいなと思っているので、多くは語りませんが人は孤独で悲しさや切なさがいつも隣り合わせにある。そんな思いを表現しているので、実に寂しく惨めなテーマだと思っています。笑
でもその孤独と付き合っていくのは大切なことなんだというメッセージを入れているつもりです。2018SSはAGAINで過去を振り返り、2018AWで未来に進もうと決めて2017年に構想していました。
-「SOLITUDE TROOPS」タグにコレクションテーマを書き込むというのは勇気のいることではなかったですか?-
Miyata:
いつも普通なことや常識を疑って、それに反骨しながら生きている気がします。古着屋がヴィンテージのタグばかり見ているのでタグなんて取ってしまおうと思ってとったこともあるし、ブランド名なんていらないのではないかと思ったこともあるので、どちらかといえば常識外れな行動は得意です。笑
-ブログ等でも工場との職人さんとのやりとりなどを大事にされていますね。デザイナーとして作り手の方々との関係で意識している事はありますか?-
Miyata:
出来るだけ工場には自分から出向くようにしています。洋服をデザインしているデザイナーは基本的に会社に担当者を呼んで打ち合わせをすることろが多いと昔から聞いています。僕は呼べるほど偉くもないので、出来るだけ出向く方が向いています。現場の空気もわかるし、ものを生み出すのは人と人なので、その現場は出来る限り見たいと思っています。
-踏み込んだ質問になりますが、長年物作りを共にしているパタンナーさんとの関係ですが、もともとは師弟関係のような形からスタートしたのですか?-
Miyata:
師弟関係ではないですね。はじめて知り合った頃(独立する2年前)は素人デザイナーとパタンナーという関係だったと思います。今はもう70歳を超えるパターンナーは長年洋服を作り続けて、かなり哲学を持った人なので、僕が哲学を教わった感じです。その哲学を心に入れて洋服を作るならなんでも協力すると言ってくれました。僕は目の病気があって左右の視力がおかしいため、遠近感がわからない。自分が着る洋服は自分で修理したりするけど、パターンを引いたり縫製したりするのは下手で苦手で販売できる製品になるようなものは作れません。そんな僕の苦手な部分を補ってくれる協力者みたいな感じです。実際にかなりの数の洋服が売れるようになってリスペクトしてもらえるようになった感覚があります。今では洋服の仕事を一番長く一緒に続けているデザイナーだと言ってくれています。
-踏み込んだ質問が続きますが、ちょっと息抜きな質問。自分を車で例えるならば?笑-
Miyata:
変な質問!
今自分が乗っているL型パジェロにします。笑 91年型の三菱。このころはディーゼルが全盛の時代なのでガソリン車の生産数がとても少ないんです。都会では排気ガス規制に引っかかるディーゼル車は乗れないのでかなりレアな車です。このパジェロは現在の東京ではほぼ見かけることがありませんでした。丸目のレトロなデザインとレザーの内装のかっこよさがとても気に入っています。少し前まではクライスラーのラングラーJEEPに乗っていましたが、外車に乗っているのがだんだん恥ずかしくなってきて、ファミリーカーとしても使える国産のパジェロに買い替えました。なんだかかっこいいというよりもダサ可愛い感じ。
でもトラックのようなとても頑丈な車なんです!山口県の学校の先生がL型パジェロのディーゼル車を97万km乗った記事があるので、良かったら見てください!笑
僕も100万km目指します。
http://www.mitsubishi-motors.co.jp/special/10year100kkm/story16.html
-現在の友人関係はどういった人たちが多いのでしょうか?-
Miyata:
ファッション関係の友人は少ないかもしれません。でも今は生産関係やVarde77の取扱い先の取引先とのやりとりが一番多いので、そういった人たちが友人のような感覚になってしまいます。
皆さんが知っていそうな人で言えば、モデルのパトリシオとカメラマンの長友善行君、パリに住んでいる関君なんかはファッッション関係の少ない友達です。前の会社の後輩なんかも友人のような感覚です。女性で言えば、酒井景都ちゃんが親友と呼べるぐらいの仲がいい。そのほかにも女性の友達は多い方かもしれません。
ミュージシャンで言えばReN君
https://the-terminal.jp/magazine/contents/20171212
※ReN君と去年対談した記事。
ReN君は単純に僕がファンなのだけれど、最近はスタジオに呼んでくれたり、ツアーグッズの生産をさせてもらったりと、とても嬉しい関係性です。
あと、共通の趣味を持った俳優の友人もいます。
中学の同級生でSUGALABOというフランス料理屋をやっている須賀洋介も尊敬しています。皆さんが知らないような人たちも本当はここで紹介したいぐらい。笑
-レザー、ニット、オリジナルファブリック、Varde77では製作に制限を設けずに挑戦しているように見えますが、今後挑戦したいものはありますか?-
Miyata:
ずっとやりたいのですが、家具とギターは作ってみたいです!
だれか協力してください!笑
-数多くのデザインを行ってきましたが、自身でこれは苦労したなと思う作品はありますか?もしくは、印象に残っている作品でも構いません。
Miyata:
レザージャケットとデニムは毎回かなり苦労していますよ。最近は加工は少ないのですが縮率があるので、加工はかなり神経使います。レザージャケットの加工も工場に断られて自分やスタッフが1点1点加工したりしていましたからね。デニムも自分でダメージやリペアデニムを作っていた経験があるので、細かいニュアンスを伝えながら神経使ってやっています。ほぼ定番化したN-1なんかも初めは素材探しから加工まで大変でした。あと、シーズンシーズンでパターンを新しくすることが多いので、パターンは気を使いますね。

※デザインした中で宮田氏が一番気に入っているデニム。
-日々生まれたデザインのアイデアやヒントはどのようにストックしていますか?-
Miyata:
急に思いついた時は携帯に文章でメモするぐらいです。古着を見ていることが多いので、古着は写真に撮ったり、記録することが多いです。
-Varde77のコレクションは小物から重衣料まで純国産で製作していますね。
国産に拘る理由を教えて下さい。
Miyata:
国産に拘って制作していると思われがちですが、実は今までアメリカ生産や中国生産もしたことがあります。
中国生産はメッシュキャップだけですが、メッシュキャップは値段を安く出したくて遊び程度に取り入れて欲しかったので、あえて中国で生産しました。
アメリカ生産していたものはTシャツが中心ですが、これもあえてアメリカの粗悪なボディーの表現をしてみたかった。その時は日本人のサイズ感で丸胴のTシャツをアメリカ生産できるギャップみたいなものが良くてアメリカで生産しました。
一番初めに作ったデニムはベトナムでリーバイスと一緒の工場で生産したくてそこに行き着きました。その時々でそのアイテムをどの国でどの工場で生産すれば良いかと考えた時に、国内の工場が多いという感じです。Varde77は国内のお客さんが多いので、国内生産した方が価格も質も良いバランスがとれる状況です。
工場に関してもアイテムによって工場を分けていて、綺麗な商品が作りたい時はモードが得意な縫製が綺麗な工場を選んだり、加工に力を入れたい時は岡山を選んだり、そのどちらもやりたい時は工場を掛け合わせたり、MAKEOVERみたいなリメイクはベースの古着が1点1点ことなるため、工場のラインにのせるのは難しく、個人の1人が監督してせいぜい2-3人で生産してもらう程度です。
国内生産の方が技術がいいとか言われていますが、アジアの他の地域でも技術はいいところはたくさんあります。ただ日本人の細かな感覚と絶妙なニュアンスが伝わりやすいのが日本生産のいいところかと思います。パターンをわざと直線ではなくしたり、刺繍を荒くしたり、そうゆう変わったことをするのは特に海外では不可能かと思います。技術もいいし、出来ることが多いのでやはり日本生産は安心です。
-ブランドは13年を迎え、15周年、20周年とキャリアを控えていますが、Varde77としてはどのように走っていきますか?-
Miyata:
あまり背伸びをしないで等身大でやっていきたいと思っています。洋服を作ることが義務にはなりたくないので、自分がしっかり楽しめるペースで、物作りをしたいと思っています。時には休憩もしてもいいし、子供服を作ってみてもいい。これからの未来,Varde77以外でやりたいこともあるし、他のことも充実させていくためにはVarde77は僕の等身大で自分らしい物作りをしていきたいです。欲をいえば、信頼できる誰かがVarde77の物作りに参加してくれると、いい化学反応が起こって自分も楽しめると思っています。実はその化学反応は2016SSの「GHOST」というテーマの時に1人の僕と同い年のゴーストデザイナーに数型デザインをやってもらい試しました。その時、楽しかったので、これからはそう言ったことも考えてVarde77は進んでいきたいと思います。
-今回のインタビューではデザイナーとしての価値観や哲学に触れていますが、
生まれ変わったらしてみたい仕事はありますか?-
Miyata:
高校生の頃に、ミュージシャンになる夢を諦めているので生まれ変わったらというわけでなく、60歳ぐらいにミュージシャンになろうと目論んでいます。笑
最近僕の音楽を聞いてくれるファン(赤ちゃん)が1人で来たので。笑
でも建築が好きだったりインテリアが好きだったりするので、不動産関係の仕事もいいなと思っています。これも生まれ変わる前に生きているうちに実現したいと思っています!
-今後ファッションの仕事を志す若者に向けてメッセージをお願いします。-
Miyata:
辛い経験が自分を強くしてくれていると思います。表現をするには、辛いことも楽しいことも色々な経験が生きてきます。結果を出して自信を積み重ねることも人生において大切だと思うので、目の前にある仕事をしっかりこなして、1つ1つ焦らずにステップアップしていってください。これからもよろしくお願いします。
-この企画は第2弾があるかもしれませんが、よろしくお願いします。-
Miyata:
記憶があるうちにお願いします。笑